人間が誰一人として異邦人とみなされない都市を

 復活祭の直後の月曜日に教皇が亡くなった。ご冥福をお祈りいたします。東京ドームのミサ今も思い出です。引っ張り出してきて、”使徒的勧告 福音の喜び”読んでます。

 一言だけ引用を。

 ”世界がアーティストを必要としていることはあらゆる年齢層の人々が藝術祭のようなイベントや、美術施設を訪れていることが証明しています。親愛なるアーティストの皆さん、どうか地図にまだ存在しない都市を想像してください。人間が誰一人として異邦人とみなされない都市を”(教皇フランシスコ)

 これだけでコンセプトとなるような言葉を残されて亡くなってしまった。これは教皇、神の言葉なのだが、一方でアーティストの心理を表す言葉にも触れたこれが矛盾していて困っている。

ロバート・フロスト詩集 西に流れる川 P.117 注解

 ここに描き出された海や波や雲などの原初的イメージは、来るべく混沌と闇の世界を暗示するメタファーであるばかりでなく、詩人内部の不安と恐怖の心象風景を支配するものであり、さらには自然界と人間社会との対立を浄化することによって新たな秩序と生命を再生する、創造的破壊者の象徴とさえいえるものなのかもしれません。「暗い意図を秘めた一夜」とは、単に外的な自然の暴力や神の悪意に対する詩人の批判的態度から生まれてきた表現というだけではなく、むしろ天地創造以来人間が犯してきた様々な罪に対する詩人自身の内部に潜む宗教的危機意識の断面図とみるべきものなのでしょう。また、この作品の自然描写の背後には、明らかに神の前で葛藤を繰り拡げる人間の姿が暗示されていることがわかります。しかもマシュー・アーノルドの厭世的、世紀末的宗教観を偲ばせるかのような前半部の不吉なイメージも、終極的には後半終結部にみられる「創世記」の一種のパロディ化によって、抑制された詩人の感情のなかで見事に反ロマンティシズム的なものへと昇華していることがわかります。つまり、ここで詩人が描こうとしている風景は、ひとつの自然の象徴的な姿を通して、人間の内に潜む暴力性、排他的自意識、およびそうしたものに厳しい鉄槌を下そうとするより大きな自然=神の力に対する終末的危機感や罪悪感といった人間固有の抽象的感情を、より客観的な視座に立って視覚映像化した、預言者フロスト内部の宗教的世界の写し絵のようなものかもしれません。

 この文章は「かつて太平洋の沿岸で」というロバート・フロストの詩の訳者藤本 雅樹氏による注解なのでまあ難しいことが書いてあるのだが、私の解釈は排他的自意識が詩作に向かわせている面がある気がするということだ。わたしにもそういう面は認めざるを得ないんだけど、目指しているのは人間が誰一人として異邦人とみなされない都市なので、私の心理的作業としては自分の排他的自意識を破壊することに他ならない。。。

 死ねって言っているのかって飛躍してしまうが、創作ってそういうところがある。この二つの極を往復するような行為が藝術創作なのだろう。

Still Life(Campbell’s & Candies)

IphoneをSEの第3世代から16eに変えました。ソフトバンク浜松町店の皆さんありがとうございました。

麻布教会でチケットをもらって上野の国立西洋美術館で開催されている『西洋絵画、どこから見るか?ールネサンスから印象派まで』を観てきました。チケットをもらったので図録を買ってくる。前回もらったプロヴァンスの風景もそうすればよかった。すみません。

 内容はサンディエゴ美術館と国立西洋美術館の所蔵作品を対にして、西洋絵画の歴史を読み解いていくような内容だったんだけど個人的に一番びっくりしたのはシモン・ヴーエという作家の”アレクサンドリアの聖カタリナ”(1627)という作品から、”トロイアから逃れるアエネアスとその父”(1635)という作品にいたる変化だった。前者はローマで描いたもので当時全盛だったカラヴァッジョのスタイルが色濃く残っているのだが、後者はパリで描いたものでその影響を逃れて画面が明るくなっているのだ。アートが宗教を主題にしていた時代の終わりを告げる象徴的な二つの作品対比で見れたことは良かった。キュレーションの勝利だと思います。

追伸:因みに労使はまだ妥結していないままGolden Weekに突入し水曜日迄休みです。この場合、このアトリエ日誌のなかでは私は個人事業主の立場になるのだが、一人だけど足を労の方に比重を置いて生きてゆきたい。

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