いつもお世話になってるU-nextで何本か映画を見たのだが、とにかくはまってしまったのがこのこのシリーズ3本。
まあ、皆さんはまっていたような気もするが。この映画嫌いな人いるのか?という感じ。
三田図書館でDavid Hockney特集の美術手帖(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)2023年10月号借りてきて驚いた。まあ、彼の仮説的なところもあるとは思うのだが、以下に引用します。
これに先立ちホックニーは、西洋絵画の伝統における光学機械の使われ方を研究して、カメラは世界を均質化し、能動的に見ることを妨げるという結論に達していた。著書『秘密の知識ー巨匠も用いた知られざる技術の解明ー』(2001年)(青幻社)を上梓し、光学機器を使って描かれた肖像画の数々の図版を集めて年譜《ザ・グレート・ウォール》(2000年)にまとめた彼は、レンズがとらえるのとは違う仕方で世界を描く方法を探求し始める。
(ヘレン・リトル=文、中野 勉=訳)
いわく、写真で見るよりも世界はもっとヴィヴィッドで輝いていると。。。
ヨークシャーの木々を何で戸外制作しているのかが、ようやく理解できたのだが、自分もわざわざ絵を描いていることの意味を、もう一回捉えなおさないとと思ってる。
古い話になるのだが早稲田の大学院に行っているときに、池原先生の浅倉五十吉美術館の展覧会を乃木坂のギャラリー間で行った際に、先生の図面をアクリル板にシルクスクリーンで転写したものを展示したことがある。また、専門学校の課題で便器に大便が移っている写真提出した過去アリ。。。
この文章だけ読めば、池原先生はガウディを日本に紹介した今井先生のお弟子さんで、これはデュシャン(大ガラス)からアンディ・ウォーホールへと連なるシュールレアリスムの系譜を作品化したものだったように思う。先輩にもDavid Lynchが大好きだった人もいるし。
大学は作品のコンセプトというものを考えざるを得ないところだから、そういうことをやったのだと思う。で私がここ数年絵画を通じて行ってきたことは、パリの印象派がやっていたことを東京でもというイメージだったんだけどここで、デュシャンは印象派をこう批判する
“絵画はクールベ以降、網膜的になってしまった”
クールベまでの画壇は、顧客(富裕層、パトロン)を向いて絵を描いていたんだけど、クールベは顧客の方を向いて絵を描いていなかったことを指していて、印象派ピカソもデュシャンに言わせると、何となく流行ってるから、何となく売れそうだでやってないすか?っていう批判だと思う私にも、彼の問いは突き刺さって来ていて、、、。
私でいえば世界堂の美術コンクールにたしか2回、落選していて、障害者美術展でも落選している。
網膜的になっていることへの批判として、キャンバスでなくガラスに絵を描こうと決意したわけで、この批判は今の東京でも通用すると思う。絵を描く皆さん、皆、お金の方ばかり向いてませんか?と。(これは自分にも当てはまる)本当はお金が余ってしまっているんじゃないんですか?と

